ここからは第一編の第一章、憲法のお話をしていきます。
民主主義とは何か、政治はどうあるべきか、といったことについてわかりやすく解説していきます。
とはいっても、実際に何か答えが出ているわけではなくて、「考えるときにこういう視点がありますよ」ということを紹介するだけなのですが、これが一番大切なことだと思っています。
なぜなら民主主義とは、「みんなで考えてみんなで決める」ことなのですから。
ゆっくりと自分のペースで読み進めてください。
「《私たちと政治》
かけがえのない人生を生きる私たちは、それぞれの個性を生かして、人間らしく幸せに生きたいと考えています。しかし、ひとりの力には限りがあるために、互いに協力して共に生きていかなければなりません。そのために、人々の意見や利害の対立を調整し、秩序を守る私たちの生活をよりよくする働きが必要になります。この働きを政治と言います。そして、政治を行うために決まりを定め、命令を調整する力が政治権力です。
《民主主義とは》
かつて、国王や貴族が政治を行っていた時代には、少数の人の意見や利益が優先されることがありました(専制政治)。しかし、人々が互いに協力して、より幸せに生活をするためには、全ての人が自由に意見を述べ、平等に政治に参加し、一人ひとりが公正に尊重されることが必要です。また、様々な見方や考え方を持つ人たちが議論をすることにより、より良い決定を行うことができるようになります。
このように、みんなのことはみんなで決めるという考え方を民主主義と言います。現在では、多くの国で民主主義に基づく政治が行われています。日本も、憲法で国民が政治のあり方を最終的に決めること(国民主権)を定めています。
ただ、社会の規模が大きくなり、複雑な対立を調整することが必要になると、国民が直接参加して政治を行うことは困難になります。そのため現実には、多くの国で国民が選挙で選んだ代表者が議会に集まり、議論し、決定する仕組みを取っています。
また、限られた時間の中で、全員の意見が一致しないこともあります。その場合は、より多くの人の意見を政治に反映させるために、多数決の原理に基づいて決定が行われます。
《より良い民主政治のために》
国会が国民の意見を反映した決定を行うためには、私たち一人ひとりが政治に関心を持ち、選挙や言論を通して積極的に参加することが必要です。
また、多数決を用いて結論を出す前に、少数意見の尊重のために十分に議論をすることが大切です。多数者のために少数の人たちの権利を不当に奪うことは許されません。」
政治と民主主義についての話でした。
民主主義の話をする前に、政治権力についてもう少し深掘りしておこうと思います。
ルールを決め、これを守ることを誰かに命令するのであれば、その命令に従わせる力が必要です。
誰かに何かを強制する力のことを政治権力(political power)と言います。
例えば刑法に違反すれば警察に逮捕されます。
これに逆らうことはできません。
ある者が、他者をその意志に反してまでもある行為に向かわせることができる力を、一般にパワー(権力)といいます。
ドイツの学者であるマックス・ウェーバーは、「社会関係のなかで、抵抗に逆らってまで自己の意志を貫徹する」ことを権力といっています。
犯罪者が逮捕されたくないと思っていても、警察をはじめとする国家権力にはそれを無視して逮捕する権限があります。
警察にはパワーがあるのです。
そしてこのパワーの源となっているのは、刑法や警察法といった法律です。
もう少し身近な例で考えてみれば、例えば上司が部下に命令をしてその部下が断れない時、上司にはパワーがあると言えます。
ここで言うパワーは、部下の待遇や仕事内容を決定する権限かもしれません。
賄賂を渡されて不本意なことをやってしまう場合も、お金がパワーになっていると言えます。
もっと原始的な例で言えば、喧嘩が強いことがパワーになる場合もあるかもしれません。
このように、様々なものが政治権力になる可能性があって、相手の意思に関わらず自分の命令を強制する力を総称して政治権力と呼びます。
本文にもありましたが、かつては王族や貴族などの少数の人々が政治を行っていました。
歴史的に有名なもので言えば、フランス革命以前のフランスなどです。
当時は絶対王政で政治を行っており、王様の言うことは絶対という状況でした。
一応法律もありましたが、その法律を変える権利も王様が持っていたので、気に入らない人間を逮捕したり、 市民の税金を勝手にあげたりということが王室の好き勝手で行われました。
権力者がきちんとみんなのことを考えて良い政治をしてくれるのであれば、専制政治自体はそれほど悪いものではないのですが、やはり歴史的に見て、少数の人々に権力が集まると腐敗していくパターンが多いです。
やはり、みんなのことはみんなで決める民主主義の形をとったほうが、結果として国家は安定するのでしょう。
イギリスの元首相ウィンストン・チャーチルは、「民主主義は最悪の政治といえる。 これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」と述べています。
民主主義政治が抱える構造的欠陥に関してはまた追々述べていこうと思いますが、とりあえず今のところは、「一人一人が公正に尊重されるためには、一人一人の意見を政府・政治に反映させなければならない」という程度の話にしておきましょう。
そして、巨大な政治権力になり得る政府のあり方を国民皆で決定するシステムが民主主義で、民主主義の理念に従って政治が行われる国家形態を民主制と言います。
民主制には、国民がみずから直接政治を行う直接民主制と、国民が代表者を選出して一定期間権力を信託し、それを通じて政治を行う間接民主制とがありますが、
現実的には間接民主制の形をとることが多いです。
日本の政治も間接民主制の仕組みで、国民が選んだ国会議員が国会に集まって法律案の審議や国際条約の承認を行っています。
もちろん理想論で言えば直接民主制ができるに越したことはないです。
国民一人一人が政策ひとつひとつに対して意見を述べ、互いに議論ができるようになれば、より綿密に政策議論を行うことができます。
しかし、1億2000万人の意見を集約するということは並大抵のことではなく、おそらく議論がまとまることもないでしょう。
現実的に考えて、直接民主制を適用できる範囲というのはごく限られています。
そして皆さんご存知だと思いますが、国会議員というのは選挙でたくさん票を取った人が当選するものです。
なので、必然的に国会は多数者の意見が反映されたものになっています。
このこと自体が一概に悪いとは言えないのですが、多数派の人が集まるとどうしても少数意見の尊重が難しくなります。
「数が多かったら強い」ということになりかねないのです。
少数民族の保護や在日外国人の権利の問題などがなかなか解決しないのは、ここに原因の一つがあります。
もちろん少数意見を保護するために多数派の人が我慢するというのもまたおかしな話ではあるのですが、かといって少数意見はもみ消していいというものでもありません。
宗教問題などは、数が多かったらいいというものでもありません。
マイナーな宗教を信じている人でも、その人はその人なりの必死な思いがあってそうしているのです。
キリスト教は信者がいっぱいいるからすごいという問題ではないのです。
また別の問題として、本当に多数者の意見が反映されているのかという問題もあります。
基本的に国会議員の選挙は多数決で決まりますが、国民全員が投票にいっているわけでもありません。
投票率の低さが問題になる理由の一つがこれで、 せっかく民主主義政治でみんなの意見を反映しようとしているのに、そもそも投票率が低ければみんなの意見を反映できているかどうかもわからないのです。
ちなみに国政選挙の年代別投票率は、平成29年10月に行われた第48回衆議院議員総選挙では、10歳代が40.49%、20歳代が33.85%、30歳代が44.75%となっています。(全年代を通じた投票率は53.68%)(総務省ホームページ)
半分くらいの人は投票に行っていないので、選挙で勝った人が本当に多数派の代表なのかどうかもよく分からないのです。
また多数決のシステムにも問題があります。
小選挙区制の選挙の基本的なルールとして、一番たくさん表を取った人が当選するということが原則です。
しかし、各候補者の得票数が拮抗していたらどうでしょうか。
例えば4人のの候補者が選挙に出ていたとして、それぞれの得票数が、10000、10000、10000、10001だとしたらどうでしょうか。
この場合、10001票取った人が当選です。
ルール上はこれで問題ないのですが、残りの3万票を無視することになります。
これはかなり極端な例ですが、実際に似たようなことが起こったことはあります。
例えば2017年の衆議院選挙、新潟3区では、1位当選者の黒岩宇洋さんが95,644票、次点の斎藤洋明さんが95,594票という、50票差の大接戦となりました。
この場合、かなりの数の有権者の意見が国会に反映されないことになります。
このように民主政治には、多数派の意見を尊重することが本当にいいことなのかどうかも分からないし、そもそも多数派の意見を尊重できているかどうかも分からないという問題があるのです。