前回から引き続き、基本的人権のお話をしていきます。
今回は特に自由権にスポットを当てます。
表現の自由、経済活動の自由といったキーワードを押さえながら、憲法が保障する権利について考えていきましょう!
「《自由権とは》
私たちが一人一人個人として尊重され、互いの違いを認めあって個性や才能を発揮していくには、国家などから不当な干渉や妨害を受けずに生活できなければなりません。そのために必要な権利を自由権といい、日本国憲法は以下の権利を保障しています。
《精神の自由》
私たちにとって、自由にものを考え、正しいと信じる生き方をし、正しいと思うことを発表することは、生きる上でなくてはならないことです。
わが国では、大日本帝国憲法の下で信教の自由が制約されたり、政府や政治のあり方を批判した人々が逮捕されたり処罰されたりしたことがありました。そこで日本国憲法では、精神の自由を保障しています。中でも、人が正しいと思うところを自由に言えるように保障する表現の自由(21条)は、他の人権を守る役割を果たし、民主主義にとって欠かせない、特に重要な権利です。表現の自由には、言論・出版・集会などの自由があり、国が人々の意見の内容を検閲したり、出版や集会をやめさせたりすることはできません。
《生命・身体の自由》
私たちが自由に生きるには、命を奪われないことや、不当な理由もなく捉えられ拘束されたりしないことが必要です。日本国憲法は、法律によって定められた手続きによらなければ刑罰を科されないことや、裁判官の令状(逮捕状)なしには逮捕されないことや、取り調べにあたって拷問や残虐な刑罰を禁止することなど、生命・身体の自由を保障しています。(18、31、33~39条)
《経済活動の自由》
どこで暮らし、どのような職業に就くかは、私たちの生活にとって重要なことです。封建的な社会では、身分や生まれで職業が決まり、移住することも自由ではなく、財産が勝手に取り上げられることもありました。日本国憲法は、そういうことのないように、居住・移転の自由、職業選択の自由(22条)や財産権(29条)を保障しています。これらの経済活動の自由によって、私たちは自分の意思で契約を結んだり(契約自由の原則)、財産を所有(私有財産制度)したりすることができるのです。
しかし、自由な経済活動は貧富の差の拡大などの社会問題を産みます。そこで公平・公正な社会を実現するために、経済活動の自由は精神の自由ほどには保証されず、国による規制を受けることがあると考えられています。」
早速解説を始めていきます。
今回は自由権について特に重点的に取り上げていきます。
前のページでも解説したように、人々にとって国家から不当な干渉を受けずに自由に生活することは何よりも強く求められたことでした。
そこで日本国憲法では、精神の自由や生命・身体の自由、経済活動の自由を保障することを定めました。
第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。〔思想及び良心の自由〕
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。〔信教の自由〕
第三十一条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。〔生命及び自由の保障と科刑の制約〕
戦前の社会では信じている宗教を理由に処罰されたり、政府の批判をした人が逮捕されたりすることが横行していました。
戦争に反対していた人たちも、治安維持法のもとで何かしらの形で処罰を受けることとなりました。
そういった歴史的経緯からの反省も踏まえて、表現の自由などの精神の自由をしっかりと保障することを定めました。
生命・身体の自由に関しても歴史的経緯から考えた反省が踏まえられています。
拷問によって自白を強要することなども現在では禁止されています。
拷問があまりにもきつすぎて、その苦痛から早く逃れたいばかりに、冤罪であるにも関わらず「自分がやりました」と言ってしまう人がたくさんいたからです。
これをやってしまうと、罪もない人を処罰してしまうというだけでなく、事件の真相が結局明らかにならないということになってしまいます。
よくわからない理由で逮捕されたりすることも昔はたくさんありました。
そういったことを避けるために、現在では裁判官の令状(逮捕状)がないと逮捕されないことが定められています。
経済活動の自由も重要な概念です。
昔だったら農家に生まれたら農業をやるしかないし、商人の家に生まれたら商人になるしかありませんでした。
現在では職業選択の自由が定められています。
自分の意欲や能力次第で自由にやりたい仕事を選択できるようになったのです。
(自由に選択できるが故に発生した新たな苦しみも存在します。この点に関してはまた別の機会に詳しくお話ししようと思います。)
人々は自由な選択によって契約を結んだり仕事をしたりすることができるようになりました。進化か退化かはよくわからないですが、とにかく大きく変わったということは確かです。
一応根拠となる条文も見ておきましょう。
第二十二条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
この「公共の福祉に反しない限り」というのが曲者で、ここはかなり幅広い解釈ができるところではあります。
公共の福祉とは、 社会一般に共通する幸福や利益のことです。
個人の利益や権利に対立ないしは矛盾する場合があり、相互の調和が問題とされることがあります。
例えばお医者さんになるためには、大学の医学部を卒業して国家試験に合格する必要があります。
この制度は考えようによっては職業選択の自由を侵害しているとも言えます。
合格者の定員が決まっているのでお医者さんになりたくてもなれない人が必ず出てくるのです。
しかし、その際の職業選択の自由は制約されることが正当化されています。
お医者さんになりたい人には気の毒ですが、一般の患者さんからすると、医学的な知識もない人に医療的処置をされることは、とてつもなく不安になることです。
そこで、大学に入ったり国家試験を合格した人だけをお医者さんとして認めるという制度を作ることによって、最低限度の知識が身に付いた人しか実際の患者さんを相手にすることができないようになっているのです。
医療というものは特に人々の健康や福祉に直接関わってくることなので、このような制約が課されることになります。
お医者さんになりたい人の職業選択の自由もありますが、他の人々の健康で文化的な最低限度の生活を維持する権利もあるのです。
それらの重みの違いから、公共の福祉、つまり社会一般に共通する利益を守るために、職業選択の自由を制約することは許されるのです。
人々の自由権が公共の福祉による制約を受けるかどうかには、自由権の性質によって違いがあります。
ここから先は少しテクニカルな話になるので、難しいと感じる人は飛ばしてもらって結構です。
先程紹介したような、人々の自由権を制約するような法律が憲法に違反しているかどうかを判断する時の判断基準として、「二重の基準論」というものが存在します。
結論から先に言えば、一般的に経済的自由の方が精神的自由に比べて公共の福祉によって制約されることが認められやすいということです。
もう少し詳しく見ていきます。
法律が憲法で定める自由権を不当に制約しているかどうかを判断する時に、その法律の制定目的によって消極目的規制と積極目的規制に分けて考えるという方法が存在します。
消極目的規制とは、近代的な夜警国家観のもとに国家の役割であるとされた、国民の生命・健康・安全を守るために必要な姿勢のことです。
消極目的という言葉がわかりづらいですが、要するに生命の維持や身体の自由など、人々の生活にとってよりコアな部分を定める立法目的を持った規制のことです。
一方で積極目的規制とは現代の福祉国家の理念のもとに国家に期待されるようになった、社会的・経済的に弱い立場に置かれた人々を保護するため、あるいは経済全体の健康的な相場を維持するためなどに行われる経済活動に対する政策的な規制のことです。
これも積極目的という言葉が難しいですが、最低限生存できるくらいの生活は保障された上で、より良い生活を求める福祉的な役割を期待されるような目的のことを言います。
「宗教上の理由で逮捕されない」とかは消極目的で、「自由に仕事を選ぶ」とかは積極目的です。
法律が憲法に違反しているかどうかを精査する基準として消極目的規制の場合は「厳格な合理性の基準」、積極目的規制の場合には「明白性の基準」を用いることが最高裁判所の判例で示されています。
「厳格な合理性の基準」というのは、「とてつもなく合理的でない矛盾が発生しない限りは違憲判決は出ません」ということです。
ほとんど言葉遊びのようなものですが、こういった学問的背景もあって経済的自由に関しては法律によって規制されることが比較的多くなってしまうのです。